2017年4月22日(土)

スペシャルMM「広島被爆体験談」語り部:藤村敏夫さん

講演内容を文字起こししました

司会:NPO法人hanna代表 木下弘美

 

【司会】

「みなさん、こんにちは。今日はhannaのスペシャルMMにお越しくださいましてありがとうございます。

 今日は広島被爆体験談ということで 藤村敏夫さんにおいでをいただきました。

私はNPO法人hanna代表の木下弘美と申します。どうぞよろしくお願い致します。

こちらが愛媛県松山市からいらしてくださった藤村敏夫さんです。

簡単なプロフィールをご紹介します。

藤村さんは 松山市役所市民参画まちづくり課 原爆被爆体験の語り部さん、現在86歳です。

昭和6年、山口県でお生まれになりました。山間の平和な村で育ったのですが、昭和19年10月に、学校の校長先生に呼ばれ、勤労学徒で広島に行くよう命じられ、11月3日に広島に行き、旧国鉄でお仕事をしていました。13歳でした。

翌年の8月6日に原爆が投下されました。

その後、山口に戻って仕事をされていたそうですが、広島での体験を話すこともなく過ごしてきたそうです。その後 転勤で愛媛に住むようになり、6~7年前から、やっと被爆体験を語るようになったそうです。藤村さんは爆心地から3キロくらい離れた所にいたそうですが、工場(建物)の中に居たので直接 熱線を浴びることはなかったので、今こうしてお話をしてくださっています。その時外に居た方はそのまま亡くなったそうです。

今日は私の古くからの友人である渡辺敦子さん(藤村さんの娘さん)が いつか札幌に行きたいと言っておられ、ある日突然、飛行機の予約が取れたと連絡があり、来てくれることになりました。

藤村さんは京都のお孫さんの結婚式に呼ばれても、身体が大変なので行かないと断るほどでしたが

それでも北海道で被爆の体験を聴いてくださる人がいるなら、話したい!と言ってくださいました。

毎日講演が終わるとベッドに倒れ込むほどだそうです。直接原爆との因果関係は分からないのですが、身体はもうボロボロです。

渡部敦子さんから~「京都の孫は初孫なので、行こう!と言ったのですが、もういいわ と言うのです。

京都でも待っていてくれたのですが、札幌でお話できると知ったら行く!ということになったのです。この話をすることに それほどの使命感を持っているんだと思います、今日は元気に話してくれると思います。」

昨日、午前中は野幌高校、午後は豊平区民センター、今日は北海道で最後のお話になります。

では藤村さん、よろしくお願いします、みなさん拍手を!(拍手)。

 

【藤村さんのお話】

はじめまして。ご紹介をいただきました藤村敏夫でございます。今年で86歳まで生かしていただきました。現在、愛媛県松山市に住んでおり、26年になります。今日、こうしてお話ができるように手配をしてくださった関係のすべてのみなさんに感謝します。

現在の中学1年生(当時の国民学校の高等科1年生、13歳)の時に山口県岩国市の小さな平集落で平和に13歳まで。「お~い、藤村の息子 ちょっと来い、かしわもちが出来たから食べて行け」と言って

10個くらい分けてくれ、全部食べても満腹にならない位、お腹を空かせていました。食料は兵隊さんにすべて供出させられていたので、普段から粗食でした。その村は、みんなが家族のように仲良く平和に暮らしていました。

ある日、校長先生から、お前たち3人で 国有鉄道広島第1機関区に行って働いてくれないかと言われ(徴用されて)同級生3人で 11月3日に勤労学徒として行きました。労働を提供して お金は一日72銭でした。

広島には食べ物がない!着る物がない!石けんはない!すべてないものづくしです。衣類を持って田舎に行き、食料と交換してもらって帰る時、誰かの密告によって警察に報告されて荷物を没収され、さらに厳しい制裁が待っている。没収された食べ物は船に積んで兵隊さんのために送ります。

物資や兵隊さんを積んだ船が宇和島港や愛媛港や佐世保港等から沖に出た所で、連合軍(アメリカ、フランス、オーストラリア、イギリス等)の大きな船によって打ち沈められ、兵隊さんの所には届きません。戦争はいけませんなぁ!

そういう生活の中の8月6日、あの暑い暑い時期に、真夏の雲一つない晴れ渡った日に、私は寄宿舎を8時前に出て機関区に行きました。

30人位集まったところで班長が、今から朝礼をやるから集まれというので、機関車がたくさん集まっている車庫の隅に集まり、指示を受けます。伝達式です。

その最中に(8時15分位だったらしいが)車庫の窓から、周囲から一斉にぴか~!と光が、目を突き刺すような強~い光が目に入ってきました!白いとも青いとも分からない強~い光と同時に、爆風が!熱風が!

車庫の窓を突き破って通り抜けて行きました!何人かが吹き飛ばされましたが、何が起きたのかさっぱり分かりません!そこに倒されて目と耳をふさいで、うつぶせになり、じっと待っていました。

何分かが過ぎたころ、目と耳をすこしずつゆるめて、外を見ると、何かざわめいている声がします。意識ははっきりしていたので、立ち上がって壊された車庫の窓に行って、おそるおそる、そっと外を見るとどうでしょう! あの広い広島の町に、いっぱい立ち並んでいたはずの家々が、1軒残らず、吹っ飛ばされているじゃありませんか!!みんな倒されているじゃありませんか!!

倒された家の中にいた人たちは、みんな下敷きになってしまいました!

「助けてくれ~!お~い、手を挟まれた!足が抜けん!助けてくれ~!」と、どの家からも助けを呼ぶ声が聞こえてきます。窓の近くの民家から、子どもの声とお母さんの声が聞こえてきます。

「お母さ~ん!背中に何か落ちて来た!痛いよう~!」と男の声が聞こえてきました。その時「お母さんが今、助けてあげるから がんばるんだよ~!」と声を張り上げますが、お母さんもまた家の下敷きなっているのです!その手を少しづつ手を伸ばして、よじるように、這うようにして行って、やっとの思いで手が届き、その子の手を固く握りしめ、引っ張り出そうとしますが、どうしようもありません!

そのうちに倒された家々から、火災が発生してきました!やがて火と火がつながって、火の海となり、その親子の上にもせめてきました。「お母さん!熱いよう!熱い~!」と声を出していましたが、容赦なく火は倒れた家を焼き尽くしました。ついにその二人の声も聞こえなくなりました。

私はじっと最後までじっと見ているわけにはいきません。私自身も、何がおきたのかさっぱり分からず、怖さもあります!逃げたい!みんなと一緒に安全な所に行きたいのです!

そうこうしているうちに 朝の班長がやってきて「お前たち、手足の動く者は、国鉄の管理部を焼いたら大変なことになるから」と言う。国鉄の管理部は頭脳です。そこは大切なものがたくさん集まっている所です。その火災を防ぐために手伝ってくれと言われ、3台連ねた機関車に20~30人が飛び乗り、西に向かって進むのですが、引き込み線の中に、先ほどの爆風と熱線で吹っ飛ばされた散乱物が線路の上に散らばっているので、それを取り除きながら進みます。

そこに馬が1頭 猛スピードでこちらに向かって走ってきます!

敷き詰めてある線路につまづきながら、足を滑らせながら その馬は猛スピードで通りぬけようとします。怖くなって機関車に飛び乗りました。よく見るとその馬の大きなお腹の横には穴があいています!けがをしたんでしょう。その穴から腸がだら~んと引っ張っている!それでも馬は燃えさかる火のほうに向かって走っていきました。

私たちの役目は火消しで、やっと思いで駅の構内に入りました。ところがそこの状況は!

山陽本線の上りと下りの列車がほぼ同時に 広島の駅に停車しました。爆弾が落ちる少し前に…

降りる人、乗る人、プラットホームには、何千という人々がざわめいています。駅から2.5㌔メートルの所に、あの原子爆弾が落とされ、爆発したのです!あっという間に 大勢の人たちが 全身に大やけどをしたのです!あっという間に身体全体が火ぶくれになっています!あれ?どうしたんだろう!?と、自分にも分かりません。

そういう人たちががやがやと、安全な所を求めて動いています。

当時の広島の駅には地下道があり、そこを通らなければ、南の入り口と北の出口には出られません。

全身火ぶくれの被災者は、地下道への階段に押し寄せました。押すな押すなと言いながら、さらに人が集まり 一人が転ぶと次の人がおり重なって倒れます。七重八重になって倒れ、下の人はみんな圧迫死です…。

そういう状況をみながら 駅の西にある管理部に向かって放水をはじめました。

機関車から出る水圧は消防車の何十倍もの強さです。

5~6階の高さまで放水を1時間近くやったけど、周囲全体が火の海ですから、周囲の過熱により、ついに管理部も火を噴きはじめました!しばらく続けていましたが、やがて班長が「こりゃもういかん、帰ろう!」と言い、出てきた機関区に向けて帰って行きました。

機関車3台を機関区の隙間に入れ、みんなが降りました。私が降り立った所に10歳位の少年が立っていました。

「水をくれ~!喉が痛い~!水をくれ~!」と言いながら、何千という人が、機関車をとめてある広場、

機関車の車庫の中の全員が、「水をくれ~!喉が痛い!」と言う。

どうにかしてこの子に水を飲ませてやろうと思って水道まで行ったけど、水道の機能はすでに失われており、わずかに開いた蛇口から、ちょろちょろ出る茶色の水を、器にとって飲ませてあげました。真夏なので腐っていた水かもしれません。その少年は、張りつめていた気持ちが少しは緩んだのでしょう…。

「兄ちゃん、ありがとう、すまんかったのう…。やっと楽になった」と言ったような、言わないような…。

見ている間に、その場に、ぐにゅぐにゅと倒れていきました。周囲は線路で鉄板も敷きつめてあり、触るとやけどをするくらい熱いのです。

何とかして涼しい所に運んであげようとしたのですが全身火ぶくれですから、触る所がありません!

皮膚が破けて、ぶら~と垂れ下がります!中からは筋肉が出てきます!赤いような紫のような筋肉がでてくるのです。

哀れですねぇ…かわいそうですねぇ…。そういう状況を私は見てきました。

 

戦争というのは、いけませんねぇ!食べ物は没収され、すべてのものが無くなる!戦争はいけません!

いかんなぁ戦争は!まして原子爆弾なんて!あんな恐ろしい怖い悲惨な武器は、絶対にこの世の中から廃絶して行こうじゃないか! また原発も同じようなものです。無くして行こうじゃないか!

みなさんとこれからは手を携えて、みんなで手をつないで、安全で安心な世の中を作って行くのは、現在ここに生きているみなさんの責任です!平和!平和!

安全で平和に暮らせる世の中を作るのは、現在ここにいる私、みなさんです。手を取り合って、むつみあって、戦争のない、話し合いによって解決の出来る社会を作り上げていこうじゃありませんか!

これで私のお話を終わりにしたいと思います。

しばらくのご静聴ありがとうございました。(拍手)

 

【司会者より】

藤村さん、どうもありがとうございました。

この後、みなさんから 藤村さんに質問などがありましたらどうぞ。

 

藤村さんから~私は、顔はいいんです。頭もいいんです。ですが耳だけは聞こえが悪くなっていますので

顔と不釣り合いですね。

出来る限り大きな声で言ってもらいます。娘に中継もしてもらいますから。 

 

【質疑応答】

Q:どのようにして元のお住まいの所に帰られたんでしょうか?

A:私の生まれは岩国市ですから、広島から西へ向かって行きます。広島駅から出て西の 最初の橋を渡ろうとしたら、あの丈夫なコンクリートでできた橋が原爆のせいか無くなっていました!途中で折れていました。これはダメだと思って少し上(かみ)の鉄橋を渡ろうとして行ってみたら、鉄橋の真上で貨物列車が火を噴いていました!

どこから火が出たのでしょう?当時の貨物列車は、屋根のついた鉄板で出来た四角い箱(有蓋かんきゅう車という屋根のついたもの)でしたが、武器を作るために鉄が全部、国に徴収されて 木材で出来ている貨物列車でした。

たとえ木材で出来た貨物列車と言えども、そう簡単に火がつくものではありません。

バーナーでも簡単にはつかないのです。ところが原爆は3,000℃か6,000℃の熱風ですから、木材の貨車は焼けてしまいました。

そこもダメなので、さらに上の橋を渡ろうとしたら、その川に、やけどをして、身体全体が火ぶくれになった人が川の中にみんな降りていました。水もほしかったでしょう、やけどで苦しかったでしょう。私たちは土手を歩くのです。

川に避難している人たちは、胸に付けている名札・住所を見せて、自分の所に連絡を入れてくれと、一生懸命に叫んで頼んでいました。

横川という広島駅の西に辿り着き、燃え盛る火の中に救援列車がきていたので、4~5人で機関車の一番前に乗って岩国駅に帰りました。我が家には2日半かかって着きました。乗り物の状況が悪く、木炭自動車でした。ガソリン車はほとんどなく、県に1台か市に1台くらいしかありません。木炭車は火をたいて、バスの後ろに火をたいて、火からガスをとって動いているのです。

 

Q:機関区は爆心地から どの位 離れていましたか?

A:第一機関区は、今の新しい広島球場の所で、3キロくらいの所と言いますが、コンパスで図ると

2.5㌔の範囲内でした。被爆手帳には3キロと書いてあります。

 

Q:貴重な体験談ありがとうございました。広島では、72年たって原爆に関して、若い人(高校生等)の関心はありますか?

A:むしろ最近になって、4~5年前から、特に原爆資料館を中心に、この悲惨な状況をみなさんに 伝えていかなければならない!ということで力を入れています。最近では関心を高めていますので、みなさん 応援をよろしくお願いします。若い人(高校生)の直接の反応は、よくは分かりませんが 中高生のみならず、現在、1歳から 地球上にいるみんなが手を取り合って 安全で平和で住みやすい地球にせんといかん!という気持ちを持っています。

(渡辺敦子さんより):四国では小中学校の修学旅行は ほぼ広島で、その前後に体験談を聴かせています。広島の中では平和教育がもっとなされていると思います。

 

Q:今 大学生ですが、高校まで広島に居ました。平和に関心の高い高校時代の友人が ニューヨークの国連の会議に行って署名を届けたりしていましたが、広島県内でも原爆投下時の時刻が言えない子がいたりします。関心が低くなっていると思います。

原爆資料館の今までの展示(蝋人形など)が撤去されるそうですが、真実を伝えるために 私はあった方がいいと思いますが、どう思われますか?

A:イメージがあまり強すぎるので、やけどの部分や、激しい感情を与えるような画面の撤去希望があるようですが 私たち被害者は それ以上に展示してもらいたのが願いです。が、次第に若い子には厳しすぎる、激しすぎる、哀れすぎるという理由で 筋肉がむき出しになっているような図面等を撤去する方向に動いているようですが、むしろ逆だろうと私は思います!これからも叫び続けて行きたいと私は思います!(会場から拍手が沸き起こる)

 

(司会者より):この中で広島原爆資料館を観に行ったことがある方はいますか?私も展示を残してくださいというメールを送りました。 他に質問は?

Q:3人で山口から広島に行かれて その3人は帰ってこられたのですか?

A:ありがとう。よく訊いてくれました!小さな学校から行った3人のうち2人は、8月6日の夕方、救援列車に乗って帰りましたが 特別に1人は当番として残っていました。機関士、機関助手、機関助手見習いという人を朝、呼びに行く仕事でした。運転手等の家は当番の人しか知りません。戦争で爆弾が落ちて家も倒されています。

お盆には必ず家に帰してやるからというので、その一人は14日の夕方、喜び勇んで 岩国駅に辿り着いた所へ、あのB29の500キロ爆弾が どんどん どんどん! 雨のごとく投下されました!

運悪くその爆弾にあい、明日は終戦という前の日の14日にやられて 肉体は引き裂かれ 骨はぐちゃぐちゃになり、その死体は未だに分かっておりません。村上まさるという少年でした。かわいそうでした。

私たちは悪運が強いのか、86歳の現在まで生かされております。感謝しています。

 

Q:シベリアの抑留体験を語る会の代表をしていますが、語り部は高齢で激減していると言われますが、広島の語り部は何人位いますか?

A:愛媛の松山では私一人です。以前はもう一人いました。広島にはもっといると思います。

 

Q:語り部をするきっかけは何だったのですか?

A:この話を風化させてはいかん!世の中にこういう悲惨な状況があったということを話し、語り部として残して行ってくれないかと この次女に言われて始めました。7~8年前からです。残念ながら 私から奮起してのことではありませんでした。

 

Q:もし答えにくかったら答えなくていいのですが、それまで この事を話さなかったのはなぜですか?

A:昭和20~21年、私が会社に入った頃 風評被害というのがありまして、あの男のからだに触ったら 放射能が移るぞ!あの男の身体には触るな!と聞かされていました。生まれてくる子どもも、放射能があるので どんな子が生まれるかもわからん、結婚するな!という被害がありました。今はそういう被害はなくなっております。

私は現在では5か所、身体を切っております。放射能の影響と思われる病気です。

胃がない、胆のうがない、腸を4センチ切る、縫合不良、腸と腸を引っ張り出してつないだ所が 中から汚物が身体の中に流れ込む、それを防ぐために5か所の手術をしています。全部とは言えないが 私は放射能の影響もあると思っています。それは持病だという人も居ますが、私は放射能の影響もあるのでは?と思っています。

同じ所を5か所も切って…よく生きていたものだなぁと思い 感謝しています。社会の医療の方や地域の方々や、みなさんのご支援のおかげで86歳まで生かされて、ありがたく感じています。これからも よろしくね。

 

(司会者から次女の渡辺敦子さんへ)

Q:敦子さんは被爆2世になりますが、何か葛藤とかありましたか?

A:被爆2世と自覚したのは 平成1年くらいの時に、県か市から 「被爆2世の方々へ」 というハガキが来て 健康診断が無料で受けられます と書いてあったのをみて 「ぁ、私は被爆2世なんだぁ!」と…。聞いてはいたが、あまりピンとはきていなかったです。おかげさまで健康診断を受けることもなく健康でいます。私は双子で生まれており、昭和35年生まれで、その頃はあまり双子は多くはなかったです。家系的にも双子はいなかったので少し心配はありましたが、小学校で卵子や精子のことを習った時、人間は一人生まれるのが正常だという授業があり、家に帰って母に伝えたら

母はとても怒って「え?双子が異常って どういうこと!」と言ったので ああ親は気にしていたんだなぁと思いました。

姉は 結婚を考えていた人が長崎の被爆2世の方だったので、二人で話し合って結婚はやめにしたそうです。その後、別の人と結婚して幸せに暮らしています。私は結婚の時には全く気にしていなかったです。

主人とも特に話し合った事もなく、私がこういう活動をすることを とても応援してくれています。その後の調査、被爆による障害について あまり研究もされていなかったので、福島の事故の時にも あまり重要視されなかったという事があると分かって、今年位から 被爆2世3世の健康調査をして残して置かないと という事で大々的に始まったそうで、詳しいアンケートが送られてきています。3世になる私の子どもは2人います。

 

Q:戦争が始まったのは 何歳の時でした?

A:10歳の時でした。

Q:その時の藤村さんは どういう少年でしたか?

A:小さな山村の中の部落ですが、実に平和で、戦争がどこで始まっているのか 大東亜戦争というのが…。

新聞は3日に1度しかこない、伝達もほとんどありません。ニュースも流れることはない。もし流れても、大本営発表! 日本はここで どれだけの外国の軍艦を沈めました、敵の兵隊を何人殺しました と、勝利の報告のみが大本営発表の、嘘のニュースが流れていた以外は プラスになるような話はいっさいありません。

10歳まで 平和な田舎で、仲睦まじく、隣どうしが手を取り合って…。隣の家で育ったようなものですね、私は。(会場から笑い声)

私の家は貧乏で、その当時は 現金収入というのがなく、物々交換です。私の家は 家族は多い、食べ物はない、せっかく作った食べ物は 家族によってみんな消化してしまう。お金持ちの家は、自分で作った農作物をどこかに持って行って何かと交換して帰るから物は豊富にある。私の家は家族は多いし、働く者は少ない、現金収入がないので難儀しました。が、隣同志は手を取り合って…むしろ私は 近所の人のおかげで大きくなったようなものです。(会場から笑い)

軍国少年になりたいとか、兵隊になろうとか、志願して行こうなどという気持ちは一切ありませんでした。(会場から笑い声。非国民という言葉で笑う人も)

ただ、機関車には興味がありました。その当時、お前 大きくなったら何になりたい?と よく訊かれました。機関車の運転手になって、あの汽車を引っ張ってみたい!と言っていました。それが何かの形で学校に伝わっていたのでしょう。急に13歳の時に、勤労学徒として 引っ張り出されました。

 

Q:機関車が好きじゃなかったら、原爆にも会わなかったかもしれない?

A:そうかもしれませんね…知覧飛行場(鹿児島)、あれも悲惨なものですよ…。あれから飛び立って行った若い人が死んでしまう。あれもかわいそうなものです…。

(知覧は特攻隊が飛び立った場所です)

 

Q:私は5歳違いで、昭和10年生まれです。子どもの頃、札幌での遊びは戦争ごっこでした。学校で絵を書かされるのは 戦車や戦艦やゼロ戦の絵ばかり描かされました。戦車の絵本や肉弾3有志とかの絵本をみせられてました。冬は雪合戦ではなく 雪戦会(せっせんかい)とかを中学生がやってました。大きくなったら何になるか?と訊かれるとみんな兵隊さん!と答えていました。

A:私は田舎だったので、山や川を描いていました。

 

Q:今日は貴重なお話 ありがとうございます。私は函館育ちで、藤村さんより1歳上です。父をノモンハン事件で亡くしました。お骨もありません。父が持っていた遺品の刀に包帯を巻いて、これがお父さんだと言って家族と共に、満州から帰ってきました。そんな目にあっても当時は戦争は悪いなんて一言も言いませんでした。なぜ戦争が悪いかを知ったのは札幌に出てきてからです。当時は 仇を取ってやろう!くらいの気持ちでした。

その後、民主的な動きにも参加するようになり、広島の資料館も見にいきました。

当時は本当に大変だったという事が藤村さんのお話で(1歳上なので)本当によくわかりました。若い人の役にたちたいと思っています。北海道にもB29爆撃機が来て被害が出ており、500人以上が死んでいます。子どもたちに戦争の無意味さを伝えて行きたいと思います。

 

 

Q:昨日、高校でお話されたそうですが、高校生の反応はいかがでしたか?

A:202人みんなが 一生懸命に聴いてくださったと私は受け止めています。真面目に 正面を向いてくれて、一生懸命に聴きとってくれたことに感謝しています。こういう若い方が そういうものに向き合ってくれることを心から願っており、祈っております。語り部で小学校に行きましても、そういう信念を持って 信念を持って私は 語りべを続けて行き 力を込めてみなさんにお話を伝えて行きたいと この胸の中でじっと思っていますので、これからもご支援のほど よろしくお願いしたいと思います。(拍手)

 

Q;語り部の時間はどのくらいですか?

A:小学校では40分が限度ですね。40分では少し無理なので どうしても1時間くらいになります。学校によっては時間のずれは多少は調整してもらえると思っています。だいたい1時間あれば お話させてもらえると思います。時間、ありがたいです。

 

司会者:

昨日の野幌高校でも(1時間分の授業の中だったので)、いいところで時間となり、校長先生が「ここでとめるわけには行かない!」といって 時間を延長してくれました。高校生たちも もっと聴きたいという形で聴いてくれました。野幌に住んでいる方いますか?

今朝の北海道新聞の野幌版に 昨日の野幌高校の記事が出ていましたね。

A:はい、派手に出ていましたね。野幌高校でこんな素晴らしい事をするの?という思いで読みました。

司会者:そうなんです!

私は校長先生に直談談判に行ったのです。野幌高校は偏差値の低い学校だと 先生方がみんな言うので とても気になっていました…。

いいじゃないですか!そんな枠でくくらないで、子どもたちと直接向き合ってくれれば…。この話を中心になって進めてくれた先生のお子さんが札幌南高校だそうです。優秀な学校では、こういう話を聴くチャンスはあるそうですが、残念ながら野幌高校には、そういう話を聴ける子どもたちと 話を聴くチャンスがない、1年生は高校生に成りたてで落ち着いて聴けない、2年生は4月でまだ落ち着かないから聴けない、3年生なら…というので では3年生全員に!という事になりました。大丈夫でしたよね?昨日の高校生たちは。話が終わったあと、生徒会の副会長さんが挨拶してくれました。いかに我々が平和の中で暮らしているのかが分かった、これから どうやったら戦争をしなくなるのかを考えて行きたい、という挨拶でした。

渡部敦子さんより:

始めは何となくガサガサした感じでしたが、最後に出る時、全く拍手が違っていたので、あ、聴いてくれたんだな!という感じがすごく伝わってきました。

 

Q:被爆体験の中で 目からとらえたものと 耳からとらえたものと鼻から感じたものは何かありますか?

A:8月6日の夕方には 救援列車に乗って山口に帰ったのですが、その時、お前 今日は帰してやるが 12日には 必ずまたここへ帰れ!と申しつけられました。

その当時は憲兵という兵隊の巡査が非常に厳しいのです。もし与えられた日に帰らなかったら憲兵による制裁を受ける、拷問をうけるのです。6日から11日まで田舎で休養し、12日に広島に向かって帰っていきました。

当時、切符は誰でもが買えるわけではありません。兄が広島まで私を送ってくれたのです。私は国鉄にいるので汽車に乗れますが、兄は切符が買えません。家を出るときにお母さんが よもぎまんじゅうをたくさん作ってくれたので、それを背負って兄と二人で岩国・広島にむかいました。

持たされた饅頭とおにぎりは腐りかかって糸を引くようになっていました。切符がなくて さまよい歩いていたら、おばあさんが目的の所に行けなくなったので、コイまでの切符があるから差し上げますと言って切符をくれました。

そのおばあさんに腐りかかったおまんじゅうを、いくつかおばあさんにあげて、その切符をいただいて、岩国から終点のコイという駅に着きました。車庫に入った電車の中で一晩明かすわけです。

腐ったようなおまんじゅうでも食べながら、電車の中で寝ることになりました。その時の臭いと言ったら!もう例えようもありません!匂いだけは、みなさんに報告するわけには行きません。鼻の毛が枯れる!という表現で 当時は言いましたが、くさい~!と言ったってそれは…人間が1週間くらい、死んだまま、その周辺にバラバラ~、だ~!と居るわけですから!それが腐って 腐った口・鼻の中に、ウジが湧いているのです!虫が湧いているのです。

そういう状態の列車の中で 臭いんだ!もうこの匂いだけは……伝えられません!

あの虫!手はもげて、腕はなくなって、首が飛んでいる…、腕の方には虫が…ウジが湧いて 臭かった~! もうあの匂いだけは 二度と嗅ぐことはできません。

町に1台、県に1台の貨物自動車に、その死体を何重にも積み上げて 駅の近くや学校の広場や市役所の広場や駐車場に、死体を満載した自動車が 方々から集まってくるわけです。それは臭いというか、何とも言えない匂いでした。

当時の日本には、ダンプカーなどありませんから、積んできた死体をみんな手で降ろすのです。

その死体を降ろすのに、鳶口(とびぐち)という道具を使いました。鳶口というのは、 棒(柄)の先に

尖った鉄が付いていて、尖ったものが付いています。それを打ち込んで 昔は材木を引っ張る時に使っていましたが、今は消防士だけが使っています。

死体を満載してきたトラックの1番上の死体を降ろすには 鳶口を打ち込んで、ぎゅーと引き降ろすのです!

みんな死んで、腐りかけているのですよ! 半分は腐っています!もう1週間もたっているのですから…。

その仕事をしている人も、鳶口を振り上げたんですが、どこに打ち込んでいいのか、考えたのでしょうねぇ…。振り上げた鳶口を、じ~~とみていましたが、仕事ですから 打ち込んで、引きづりおろします…。死んでいるのですが、打ち込む時には考えて、やわらかくなっている肉体に打ち込んで引きづり降ろす!…。こういう状況は…戦争はいかんなぁ!と強く感じました。臭い!あの匂いはいかん!ああ臭かった!参りました…。

 

Q:死体はご家族の元には戻らなかったのですか?

A:その日の夕方までの死者が広島で、14万人と言われています。あの爆弾によって、爆風によって、熱風によって、やけどを負って 一度に14万人の人が亡くなったんです!どうしようもございませんねぇ…。

特殊な話ですが、広島の駅には不思議な人が一人いました。その人(男性)をルンペンと呼んでいました。毎日、長~い竹を常に1本持って、広島の駅で歩いている人がいました。その人も原爆で亡くなったのでしょうねぇ。

その当時は制裁というのがあちこちでありまして、昨日も今日も、ずる休みで病院に行けばどうにか仕事をしなくてすむ、お腹がすいていても、どうにか耐えられるので病院に行こうと、指揮官に引率されて国鉄の病院に歩いている所を爆弾でやられてしまいました。

その人たちが機関区に帰った時の状況を見たら、全身がやけどで、火ぶくれで…、哀れでしたねぇ。

昨日ずる休みをした人たち…あの原爆で大やけどをして…。3千度から6千度もある原爆の熱ですから…。

核廃絶に、非核3原則に、みんなで力を注いでいって 核廃絶 非核3原則をみんなで守りあって、末永く安心で安全な住まいを作って行こうじゃありませんか!

 

(渡部敦子さんより)

A:やけどをした人は、座ることも出来ず、寝ることも出来ず、横になることも出来ず、腹這いにもなれず、全身やけどで痛いので、足の裏も痛くて 手で支えて立っていることしかできず、立ったまま死んで行ったそうです。

本当に食べる物がなかったと何度も何度も聞いています。今はどれほど恵まれていることか…。

叔父は山口に戻った時に被爆しています。

 

Q:山口の実家に原爆のニュースが届いたのはその日?2日とか?

A:3日目です。

Q:では藤村さんがやっと2日半かかって実家に辿り着いた時には、まだご家族の方々は、何が起っていたかは知らなかった?

A:そうです!何もわかりません。顔は真っ黒!機関車は石炭をたくので、車庫には すすが だら~っと

天井のいたる所にぶら下がっていたのを、爆風によって わぁ~!っと 吹き散らされたわけですから 車庫の中は真っ暗です!その中に居て 私たちもそのすすを からだ全体に受けたのです!

洗うにも石けんはない、着替えるシャツもない、ズボンもない。からだ全体が真っ黒になったまま帰ったわけですから、お前その顔 どうしたの!?と言われました。

実はこうだったと話して。そこで原爆と言うものを知ったのです。名前はわかりません。ただ、ぴかー!と光って、ズドーン!といったから、ピカドンじゃろう という名前になりました。からだ全体がすすで真っ黒になって帰ったのを覚えています。それに、シラミというのをご存知ですか? 

あのシラミ、私が田舎を出る時は女の人の頭に何匹か居て、くしで髪をすくと取れるというのは聞いて、見てはいましたが、身体に湧くシラミはみたことも聴いたこともありませんでした!ウジです。身体の中に湧く虫です。

私はそんな不潔なことはしていない!と広島の機関区では言っていましたが、何日かして2階で学ぶために講義を聴いていたら、何だか腹の辺りがぐじぐじするのです。静かに服をめくってみると あの白いシラミが尾っぽを立てて、汚らしい、いやらしい虫のシラミが腹にいました!家の中にシラミがいては大変なので家には入れてもらえません。

おふくろが熱いお湯を沸かして、タライの中に入れて それをかけて、シラミ退治をして 家の近くにある川のそばで身体全体を洗い流して、やっと家に入れてもらえました。石けんがない!着替えがない!着たきり雀です。

4~5年は同じものを着ていたと思います。木綿で出来た下着も、時には洗わないといけないので、シャツを脱いで、熱いお湯でシラミを殺すのと、垢を落とすのとで、時々は洗って干します。

干してあるシャツを誰かがどこかから、にらんでいます。それを誰も見ていない時に取って行きます。

買うにも物がない、お金もない。着替えがないので、私も仕方なしに他の人のを取りましたよ(会場から笑い)。

取り合いですよ。戦争ほど愚かしいアホらしいバカなことはないと思います。戦争はいけませんぞ!!

 

 

【参加者の感想】

・:十勝の足寄町からきたYです。広島や知覧にも行ったことがないのですが、こういう人の体験を聴いて、戦争はいけない!という思いを受け止めていかなければと思いました。戦争をしないために自分の出来ることを、幸せを広げることを、やって行きたいなと思いました。とてもいい話を聴かせてもらって感謝しています。

 

・:札幌在住のFです。広島や長崎にも行ったことはないのですが、聴いていて、とても心が苦しくなりました。

戦争はいかんぞ!!という言葉を聴いて、今の日本も世界も 現状は戦争に向かっていると感じました。どうしたら戦争をなくすことが出来るのかを、みんなで考えて行ければと 強く思いました。

 

・:チラシをみてきました(江別のSです)。テレビ等では被爆者のお話は聴いたことがありますが、ナマの声を聞かせていただいて とてもありがたく思っています。世界で何が起きているのか…戦争の経験はないが 何となく不安で、これからの子どもたちが どういう時代を過ごして行けるのか心配です。いい時代が来るといいなと思っています。

 

・:NPO法人hannaのIです。私は埼玉県出身で、高校時代に修学旅行で広島に行きました。

2年前に藤村さんのお話を初めて聴かせていただきました。今、語れる方が本当に少なくなっているので

ぜひみなさんに聴いていただきたいと動いて、何とか実現しました。これから平和に向けての活動を 皆さんと一緒にして行けたらと思っています。今日のご縁を大切にして行きたいと思っていますので よろしくお願いします。

 

・:札幌在住のKです。今日は本当に貴重なお話がきけました。戦争のない時代に生まれて 戦争の実感はないのですが 今 食べたいものが食べられること、やりたいことが出来ること、今は非常に恵まれていること いろんな人の犠牲の上に今の生活が成り当たっていることに等に感謝 自分が幸せに生きていることに感謝したいと思いました。広島にも行ってみたいと思っています。

 

・:フェイスブックでこのイベントを知りました。用事を断ってきてよかったと思っています。Kといいます。今、大学4年です。小4の時、家族で沖縄に行って 強く感じるものがあり、その後 戦争に関心を持つようになりました。

2年くらい前に、白石の被爆者会館で女性方のお話を聴いたのですが亡くなられたと聞いたので…。今日、実際に体験した人の話を、一言一句を聞き漏らすまいと思って聴きました。誰かが引き継がないと、と思っています

私が教員になった時、子どもたちに引き継いでいけたらいいなあと思っています。お話が聴けて良かったです。

 

司会者より:今日のお話の内容を拡散していいですか?

「はい」

では私たちも知り合いに拡散して行きましょう。

 

・千歳のNです。貴重なお話をありがとうございました。私も普段から戦争のこと、平和のことに とても関心があります。今、正直言って日本が恐ろしいことになっていると思います。藤村さんが7~8年前から決心されて こういうことを始められたのは、とても素晴らしいことだと思います。

今日の貴重なお話を心に刻んで行きたいと思います。今日は若い方がきてくださって 聴いてくれることが、とても希望だと思います。

ぜひ若い方を中心に、これから私たちhannaがやっている今日のような話し合いに(MMと言ってますが) ここにぜひ参加してほしい!これが平和への第1歩だと思います!みんなで話し合うことが平和につながっていると思います。

戦争が嫌だと思ったら、MMをやってみる!話し合えば分かると思いますので。北朝鮮のことをどうのとか言っていますが、武力に訴えるのではなく、話し合いで解決すという姿勢が大事だと思いますので ぜひMMに参加してください。(拍手)

 

・昨日、豊平区民センターでお話を聴かせてもらったSです。木下さんからのご紹介です。平岸9条の会の事務局をしていますが ストップ戦争法豊平区民の会にも広げて、チラシ6千枚を配り、約80人集まり、カンパも集まり、差し上げることが出来ました。

昨年、広島(宮島)に行って、喫茶店に入った時、原爆の光をみたという人に偶然会い、お話を聴き、とても貴重な体験でした。今日のお話も心待ちにしていました。感動しました。

私は網走出身で、藤村さんとも年齢が近いです。網走の防空壕の中で空襲に遭い、自動小銃で撃たれて、非常に恐い思いをしており、それが私の平和運動の原点になっています。もう一つ 被爆者の国際条約を 今、進めております。核兵器を全面的に廃止しましょう!という国際条約ですが日本の政府は反対しています!オーストラリアやコスタリカは率先して国連で取り込もうとしていますので、ぜひ署名もお願いします。

 

司会者より:Sさんのご協力で、原爆のパネルをお借りして展示しています。ゆっくりご覧になってください。

 

・江別のNです。本日は重くて苦しいお話を聴かせてくださってありがとうございます。私は広島のことを話すと長くなります、ごめんなさい。日本政府は嘘で固めていました。当時 母は女子大をやめさせられて 父親に女も働けと言われ、銀行に入れられ、竹やりで刺す訓練をさせられていました。8月1日に終戦するという通達があったそうです。

紙が回ってきましたが母は家族には話さなかったそうです。新型爆弾が落ちるから、まとまって疎開しろというビラをみたことはあるか?と。町内会に行っても、班長が分からないから、そんなものは落ちない!と言ったそうです。

自分の教え子たちに言っても動かない!その後、あの原爆です!子どもたちは全部やられてしまいました!

自分が疎開して生き延びた教師の何と悲しいことでしょう!政府の言うことは全部うそで固められていると思います!

情報は決して鵜呑みにしないこと!これには裏があると思わなければ!これからは渡って行けないかもしれない!

それほど怖い時代になってきていると思います。みなさんに言いたいのは、選挙しかないですから!本当に思い切ったところに入れていただきたいと思います!(拍手)

 

・Mといいます。小学校の2年生の時 シベリアの抑留から父が帰ってきて、誰かに合って、それからの荒れ方!何があったのかは分かりませんが、凄かったです!それが尾を引いて、私は高校を卒業するまで親父に反発していました。本当に戦争というのはひどいものです!藤村さんの話を聴いて体がゾクゾクしました。

映像や文字などよりも、実際に体験した藤村さんのお話を聴いて、感じ方が違う!伝わり方が違う!と思いました。今日は素晴らしいお話をありがとうございました。一日でも長生きしてご活躍願います。

 

・Nです。藤村さんのお話を聴いて 実際に体験した人の話は 伝わり方が違う!と思いました。テレビで見たり、本を読んだりして知識は入ってきても、実際の体験者の生の声で、自分の言葉で話すからこそ 本当によく伝わるんだ!ということが よく分かりました。これからもお元気で 若い人たちに たくさんのお話をしてあげたらいいなぁと思いました。ありがとうございました。

 

・遅れてきたIです。最後の方だけしか聴けなかったですが、ゾクゾクして、怖かったです。世界の平和に どうやったら持ってけるかと思っていました。藤村さんのお話から、自分で今後、どうすればいいのかと 進んで行ければいいなと思いました。

 

・今日来るつもりではなかったのですが、誘われて来てしまいました。

生のお話はとてもショックでした。戦争の方向には、絶対に持って行きたくないなと思いました。

世の中の平和のためになることを、活動をやっていきたいと思いました。ありがとうございました。

 

・白石区Oです。私の父は多分藤村さんと同じ歳だと思います。青森・横須賀に行きましたが戦争が終わってしまいました。原爆に興味を持ったのは15~6年くらい前で、ちょうど札幌市役所で展示をやっていたので見ていました。教科書に載っているのも見ていました。

昨年、広島の方と知り合い、オバマさんのあと位に広島に行って、原爆ドームのある公園に入った瞬間に

足が動かなくなってしまいました。原爆を落としたのはアメリカですが、戦争を終わらせるためと言われていましたが、今の若い人は少しづつ意識が上がってきて、そうではなくなってきていると思います。日本は唯一の被爆国ですから、この悲惨な状況を語るのは辛いと思います。ただ同じような思いをした人たちの救いでもあるので、話そうと言う覚悟が出来たら話してくれたらいいなと思います。

私に何ができるか分かりませんが、できることをやって行きたいと思います。ありがとうございました。

 

・NPO法人hannaのYです。今日はありがとうございました。私は長崎や広島には行ったことがなくて 初めて 語り部のかたからお話を聴きました。匂いのことなど、とても生々しいお話でした。戦争は もう二度と起こしてはいけないと思いました。世界平和のために 自分にできることを少しでもやって行きたいと思い、hannaの会員になりました。ありがとうございました。

 

・私の父親も機関車に携わる仕事をしていました。お話のあと、質問に答えられていた話にとても感動しました。何度か言われていた「戦争は嫌だ!」という言葉は実感しています。今、日本が戦争の方向に向かっているのを覆すのは選挙しかないということ。それをめざして行きたいと思いました。

 

・壮瞥町からきました。チラシをいただいていましたが、きょうは雨が降っていたので休もうかなと思いましたが、やはり聴きたいので気持ちを奮い起こしてやってきました。今、世の中から リアリティが無くなってきていると思います。戦争だけではなく 貧しさ、格差等が今の日本にはあり、直にお話をお聞きしたいと思ってきました。正直言って、聴かないで済むものなら聴きたくないと言う気持ちで疲れています。体験をお話するということは大変なことだと思い、頑張る勇気をいただきました。ありがとうございました。

 

・新聞(赤旗)で知りました。本日のお話は 本当~に!よかったです!遠い北海道まで、身体も悪いのに来てくださって話してくださることは、とっても貴重なことだと思います。心からお礼を言いたいと思います。これからも体に気を付けて、特に若い方に 語り部を続けてください。よろしくお願いします。

 

・西区からきました。亡くなったお爺ちゃんから話を聴いたことはあります。匂いや食べ物のことも聴いていました。ただお話を聴いただけで終わるのだはなく、世の中のために、自分にもできることがあると思って参加しました。

 

・Fと申します。今日の藤村さんのお話は凄い生々しいお話でした。私が父母から聴いた戦争の話は、爆弾が落ちたとか、窓に黒い布を掛けて光が漏れないようにしていたとかで、そんなに切羽詰った話ではなかったように思います。今日は凄い衝撃でした。匂いについても、テレビをみたり、ニュースを聴いても匂いはわかりません。

目で見て、声をきいて 匂いはこうだったという話で、思わず悲惨さが伝わってきました。平和について これからどうして行ったらいいかを考えて行きたいと思います。ありがとうございました。

 

・今日は貴重なお話を本当にありがとうございました。自分は今、大学3年生で、入学してから海外の人と話す機会がふえました。海外の人に、日本の広島というと、あぁアトミックバンの所ね、と 知ってる人も増えてきています。

広島出身だからきちんと伝えなければという思いもあり、自覚も芽生えてきたと思うので、こういう機会があり、話を聴けて本当によかったと思います。これから 一人でも多くの人に自分がしていることを伝えて行けたらいいなと思っています。

 

 

【渡部敦子さんより】

今日はありがとうございました。きっかっけはいろいろありましたが、ただの思いつきではない今日の日があると思います。身近なきっかけは、昨年、東京のはとバスに父をつれて行った時、スチュワーデスさんと話した会話から、ああ、関東より東の人は聞く機会がない!と感じました。ああ、連れていきたい!と思い、今は行動するしかない!

とにかく広げるのに時間をかけてる暇はないな!と思っています。ホント選挙が大事!伝えることが大事!もう、やる!という思いで あちこちでいろんな事をさせてもらっています。

今日は連れてくることができて、本当に父も感謝しています。父の体調も良かったですし、もういつ出られなくなるか、ドキドキしています。今は本当に伝えよう!と思っています。

本当は3人に一人が伝えられたら世界に伝わると思っているが、急ぎたいので、もっと多くの人に あなたからまた伝えて!ということになれば、間に合うのではないかと思います。愛媛でしていることと同じことを ここでもみんながしている!という希望を感じました。みんながしているからきっと大丈夫!

父の講演に来られた人が、世界平和ってどうしたらいいと思いますか?と聞いた時、父は返事ができませんでした。その時、「だってね、世界中の人が平和を望んでいるのに、どうして叶わないの?」と言った時、そうだ!世界中の人が望んでいるのだから叶う!と、私は思いました。だから絶対叶うと思います!

叶えないと人間、そんな馬鹿なままで終わるのはあり得ないですもの。今回はいろんな希望をもらいました。

本当にありがとうございました。

 

【藤村さんより一言】

大東亜戦争では、アメリカやイギリス、フランスのほかに ロシアとも戦争をしていたので、その時に捕虜になって、大変苦労された方は、大東亜戦争以上になるかもしれません。

抑留されて、厳しいあの寒さの中で作業をさせられて、祖国のことも忘れかけて、大変だったろうと思います。

その時の歌があります。

「今日も暮れゆく異国の丘で~ 友よ辛かろ 切なかろ~ 我慢だ待ってろ その日が来れば~ 春も来るだろ~、明けるだろう~」

シベリアの抑留者も、ロシアにやられて大変ご苦労なされたと思うので、共にいとなんでやりたいと思います。

 

【司会者より】

みなさん、今日はありがとうございました。時間がなくて まだまだ話し足りないと思うので、お渡しした資料の中にMMのご案内がります。5月12日金曜日午後6時半から(この場所で)MMで話し合いたいと思います。

アンケートにもお答えください。リーフレットにラジオのご案内もあります。私が出演している番組です。

最後にお願いです。藤村さんお二人で、旅費が足りなければ 貯金を崩してでも行くと言って来てくれましたので、カンパをぜひお願いします。

 

2017.5.27 Satoe wrote this report.